当時私は京都市内で働いていました。

その夜、あれはちょうど今日くらいの夏の夜でした。

職場の友人と木屋町で飲んで、私はフラフラと四条大宮のマンションへの帰路に着いていました。

京都の夜は静かなモノです。

祇園や河原町といった一部を除けば、大通り以外は街灯も少ない閑静な住宅街という風情になります。

昼間は賑やかな京極・錦も夜はひっそりと静まりかえり、たまに私のような酔っぱらいが歩いているくらいです。

大阪・神戸といった他の関西三都と京都の違いは夜の暗さにあるんじゃないかと思います。

まぁそんな関西の人にしかわからない話はどうでも良いですね。本題です。

その通りは街灯も少なく、家路に向かう私の他には猫の子1匹いませんでした。

日付も変わった深夜の話、まぁ日本中どこの街でも繁華街でなければそんなもんでしょう。

「ねぇ、ねぇ」

不意に聞こえた子供の声で私は足を止めました。

よくとおった、しかし抑揚のない声でした。

辺りを見回すのですが前述の通り、誰もいません。

時間も時間、場所も場所。

子供なんているはずがないんです。

気のせいだろうか? 発情した猫の声が赤子の泣き声に似ているように、

何らかの小動物や虫けらの鳴き声を錯覚したのだろう。

そう思い再び私は歩を進め始めました。

「ここだよ。ほら、こっち」

やはり淡々とした、感情のこもらない声。

どこからだろう、また歩みをとめ、きょときょとと周囲を見回す私。やがてその主は判明しました。

それは下にいたのです。

真下、というわけではありません。斜め下。

細かく言うと左前方1メートルほどの下方。

そこには蓋の外れたマンホールがあり、その中に子供がいました。

年の頃は小学校の低学年くらいでしょうか、髪はなく、多分少年だったのでしょう。

肩から上しか見えませんでしたが、気をつけの姿勢で穴に嵌ればああなるのでしょう。

とにかく子供がマンホールにぴったりと嵌り込み、顔だけ上を向けて私を見ていたのです。

一番高いところにある鼻の位置がちょうど路面の数センチ下ぐらいでした。大変な状況です。

街灯の光の具合か、その肌はいやに青白く見えたのを覚えています。

異常な事態にもかかわらず、子供は声同様に全くの無表情でした。

私はというと驚愕のあまり、数秒間動けずにいました。

「抜けないんだ」

これも棒読み。

私は「えっ、なんで?」みたいな趣旨の明確でない間抜けな応答をしたように思います。

頭の中では『警察? いや救急? 引っこ抜けば早い? でもなんでこんなコトになってるの?』

みたいにいろんなコトを考えていました。

時間にして数秒だったと思うのですが混乱して動けず、ただ子供の目を見つめていた私に、子供は問いました。

「たすけて、くれないのかい?」

助けないはずがありません。

しかし私の答えはまだどこか間抜け「えっ、ああ。いや。助けるよ」普段は冷静な人って言われてるんだけどなぁ。

私の「助けるよ」という言葉を聞いた子供は始めて表情を動かしました、

口元の両端が少しあがり、目尻が少し下がった表情、そう、微笑。そして

「ン」

ごく自然に、なめらかに、子供は片手を差し出しました。終始子供のペースです。

私は差し出された手をとり、力を込めて彼を引っ張り上げ・・・たりはしませんでした。

両手で彼の手を取りに動いたのは事実です、しかしその手が触れ合う前に私は動きを止めたのです。

八坂さんか祇園さんか、果ては八幡様か稲荷様か。

何者かはしれませんが、混乱し、

ただ出された手を取ろうとした私に天啓を与えてくれた誰かがいたのかもしれません

『おかしい。この手はあり得ない』それに気がついたのは動きを止めてからでした。

子供は「気をつけの姿勢」をしてるみたいにマンホールに「はまっていた」のです。

上を向いている顔と、その両肩以外、先ほどまで私には見えていなかったのです。

一体どんな動きをすれば腕を差し出すなんてコトが出来るというのでしょう。

気がつけば他にもおかしなコトはありました。

何故子供が、とか何故マンホールがあいているのか、

とか根本的な問題もありますが、子供が上を向いているという事実です。

肩ががっちり嵌るような狭い空間にいて、

人が上を向けるのはせいぜい30度ってところではないでしょうか。

少なくとも「一番高いところに鼻がある」くらい上を向ける人間はいないはずです。

後頭部がつかえるんですよ、普通。

手を取ろうとして動き、とる前にはたと停止した私。

そんな私を見た子供の顔は再び変化しました。

口の両端が更にあがり、下唇と上唇が開き歯が見える、最高の笑顔。次の瞬間

ガコん

大きな音がして。マンホールは閉じていました。

どう閉じたのかはよくわかりませんでしたが、音に気がついたときにはマンホールは閉じていたんです。

飲み過ぎたが故の白昼夢、いや黒夜夢。

私は己に言い聞かせてマンションへ帰り、電気をつけまくり、朝までゲームをして時を過ごしました。

残念ながら据わりのいいエピローグはありません

「昔あの場所でマンホールに落ちて死んだ子がいるそうです」とかそういうの。

探ればあるかもしれないけど少なくとも私は知りません。

誰も話さないだけかもしれないですが「同じような体験をした人が何人かいるようです」とかもないです。

全くの謎。意味不明。

現在私は京都を離れ、大阪にて生活をしています。

今でも暗い夜道を独りで歩いていると、ふと不安になることがあります。

また路面の穴から声をかけられるんじゃないかって。

「ねぇ、ねぇ」