北陸のある村に仕事で訪れたことがある。

電車もなければバスも1日に一本しか走らないという過疎村で、見かける村人は畑仕事をしている年寄りばかり。

仕事の関係でわたしはその村のある民家に泊めてもらったのだが、

年甲斐もなくホームシックになりそうなほど心細い場所だった。

泊めてくれた家の人も年老いた御夫婦で、夜の9時には揃って寝てしまう。

寂しいやら不安やらでなかなか寝つけず、居間のテレビを借りてニュースを見ていると、

11時過ぎ頃になってその家の奥さんがトイレに起きてきた。

ひとりで居間に座っているわたしに、奥さんは少し意地悪そうにこんなことを言った。

今夜は山が泣くから、早く寝た方がいいよ。

山が泣く・・・そんなことがあるハズない。意味不明だったが、

何だかイヤな気分になったわたしは用意された部屋で眠ることにした。

その日は5月の半ばだと言うのにやけに蒸し暑く、夕方からは風もなかった。

わたしは風呂を借りた後で用意された部屋に戻り、窓を開けたままの状態で障子だけを閉め、

夕飯を御馳走になって居間でテレビを見ていた。

だから眠る為に部屋に戻った時、窓を開けたままであることを忘れていた。

障子を閉めてあったので、てっきり窓も閉っていると勘違いしたわたしは、そのまま布団にもぐり込んで目を閉じた。

すると暫くして、外の方で奇怪な音がする。

それは音・・・というか、声というか、

子供や女性がわめき散らしているようにも聞こえるが、奇怪な生き物のうなり声のようにも聞こえた。

それは過疎村の山々に木霊して、いったいどこから聞こえてくるのかもわからない。

わたしは布団から飛び起きて耳を済ませた。

窓がしまった状態でこれほどよく聞こえるのだから、よっぽど大きな音であると思った。

よからぬ事件かなにかで助けを求める声かもしれないと慌てて障子をあけると、

窓は網戸の状態で開けっ放しになっている。

そういえば自分が締め忘れたことを思い出してまた耳をすます。

不可思議なうなり声のような、叫び声のような音は低く、鋭く、そして不確定に山々に響いていた。

そしてそれは人間の声や人為的なものではないことを悟った。そんな音はこれまで聞いたことが無かった。

途端に怖くなったわたしは急いで窓を閉めて鍵を掛け、布団をかぶって懸命に眠りにつこうとした。

頭の中で、この家の奥さんが意地悪く笑っている顔が浮かび、

「山が泣くから早く寝た方がいい」という言葉がグルグル回っていた。

朝になって夕べの出来事をこの家の御夫婦に話すと、二人は驚いた様子もなくこう答えた。

ああ、それなら大丈夫。もうあんたの代わりに違う人が連れていられたらしいから。

この村で誰かが「あの世に」連れて行かれる時、昔から頻繁に「山が泣く」という。

山の泣き声を聞いた人間が連れて行かれたり、死ぬまぎわの人間が連れて行かれたりと様々だが、

この時連れて行かれたのは若いカップルの男の方だった。

一昨日、村道の曲がりくねった山道から酔って車ごと谷へ転落したカップルの男の方が、

搬送先の病院で息を引き取ったらしい。