258 師匠14 sage 2008/06/29(日) 13:02:29 ID:2Ox1Ez7r0
549 古い家 ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/29(日) 01:14:05 ID:9x5Yw4U+0
ミシ、ミシ、という音とともに再び僕らは地下へ降り始めた。蜘蛛の巣を見上げながら角を曲がると、階段はまた下へ続いている。
なんだこれは。
いくらなんでも深すぎる。
これだけ地下へ穴を掘ると水が出るはずだ。大きな水脈に当たらなかったとしても、
水の浸入を防ぐためには壁を何重にもしなくてはならないだろう。
そんな面倒なことをしてまで地下へ降りる階段を作る、どんなメリットがあるというのか。
それもおそらく明治時代以前の工法で。
壁に当たって、折り返す。壁に当たって、折り返す。
その繰り返しをどれほど続けただろう。途中から数を数えることさえ忘れてしまった。
外は夜だ。晴れた夏の夜のはずだ。けれどここはまるで時間が止まってしまったか
のような空間だった。たとえ外が曇りでも、雨でも、朝でも、昼でもなにも変わりはしないだろう。
10年前も、20年前も、日本が戦争に負けた時だって、この地下の空間はこのままの姿でここにあったのだろう。
風が、頬に触れる吐息のようにさらなる地下の存在を囁く。
自然に僕も師匠も息を殺しながら進む。
「なあ」
先を行く師匠が頭をこっちに向けもせずに言う。
「この家ってさあ。どっからも入れなかったよな」
「はい」
応えながら、(戸をぶち破らせたのは誰だよ)と心の中で毒づく。
「この家を放棄した人間たちは、どっから出たんだ」
ああ。そんなこと、今は忘れてしまっていたい。
ゾクゾクと嫌な震えが背中を通り抜ける。
259 師匠15 sage 2008/06/29(日) 13:03:19 ID:2Ox1Ez7r0
550 名前:古い家 ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2008/06/29(日) 01:19:56 ID:9x5Yw4U+0
でも確かに、かんぬきだかつっかえ棒だかは、すべて内側からだった。
現代のように外から開け閉めできるような鍵はない。では、戸締りをした最後の一人はいったいどうやって外に出たのか……
まるですべてが、この廃墟の中の住人の存在を示しているようじゃないか。
それはつまり、この階段の行き着く先に、「それ」がいるということだ。
僕は息を飲みながら足を動かし続け、早く階段の先の壁が尽きることを半ば望み、そして半ば以上、恐れていた。
高すぎる蹴上に頭がガクガクと上下に揺られ続け、意識が少しずつ朦朧としてくる。
終わらない階段は麻薬のように僕の脳を冒し始めているのかも知れない。どこまで
も深く降り続ける感覚が、どうしようもなく心地良くなってくる。
足を踏み出すたびに階段の床が軋み、壁が軋み、天井が軋む。
懐中電灯の光に、パラパラと振ってくる埃が小さな影をつくる。きっと身体中真っ黒になってしまっていることだろう。
眼下に師匠の頭が揺れている。試しに階段を一段一段数えてみる。
……50を越えたあたりでやめてしまった。
ふと、子どものころ体験した祖父の家の土蔵の地下のことを考える。
ひょっとすると僕も師匠も、いつの間にか死んでいるのかも知れない。
どこまでも深く降りていく狭い階段に、"いつ"がその瞬間だったのか気づきもしないで。
まるでこの階段自身が呼吸しているかのように、風がかすかな唸り声を纏って身体をすり抜けていく。
誰も何も喋らなくなった。もう上がどうなっているか確かめようなんて気は起こらない。
ひたすら、下へ。下へ……気持ちが良い。底なんてなければいいのに。
「あ」
師匠の声が僕の意識を覚醒させる。
260 師匠16 sage 2008/06/29(日) 13:04:24 ID:2Ox1Ez7r0
551 名前:古い家 ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2008/06/29(日) 01:22:07 ID:9x5Yw4U+0
折り返しの壁に沿って身体を反転させようとした師匠が立ち止まって右側を見ている。
僕もその横から首を伸ばして、懐中電灯の光の先を見る。
階段はもう無かった。
四方を壁に囲まれた窮屈な板張りの廊下が水平方向に伸びている。
息を潜めながら師匠がゆっくりと足を踏み出していく。
僕は眼を閉じてしまいたかった。それでも師匠の背中に隠れるように後を続く。
懐中電灯の丸い光が、朽ち果てたような木戸を闇の中に照らし出す。
「気をつけろよ」
そう囁きながら師匠が軽く左手で押す。
キィ
という音とともに戸は奥へ開いていった。
「なんだここ」
師匠がすり足で慎重に中に足を踏み入れる。
そこは畳敷きの部屋だった。八畳間くらいだろうか。
師匠が8の字に波打つように懐中電灯を動かし、部屋の中を少しづつ照らしていく。
背の低い和箪笥が壁際にぽつんとあるのが見えた。そしてその隣には錆付いた燭台。
壁の表面の一部が崩れて、土くれが床にぽろぽろと転がっている。
殺風景な部屋だった。人の気配はない。生活の気配も。
畳からは黴の匂いが立ち込めてくる。
天井には蜘蛛の巣。
地下に部屋があると知った時点で、座敷牢のような所を想像していた僕はむしろ心地の悪いズレのようなものを感じた。
まるでこの家の住人の一人にあてがわれた、ただの部屋のような佇まいだったからだ。
あの長い階段さえなければ。
261 師匠17 sage 2008/06/29(日) 13:05:16 ID:2Ox1Ez7r0
552 名前:古い家 ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2008/06/29(日) 01:25:55 ID:9x5Yw4U+0
ふいに師匠の呼吸が止まった。
僕の頬を生暖かい風が撫でていく。
時が止まったように、風の吹いてくる方向を師匠は見つめている。
正面の壁に、四角く刳り抜かれた穴がある。
両手を広げたくらいの幅のその穴の外周には木で出来た枠がある。窓だ。
そう思った瞬間、身体の中を無数の手が這い登っていくような気持ちの悪い感覚に襲われる。
窓には格子戸がかかっている。
その格子と格子の間の狭い隙間から、向こうの景色が微かに覗いている。
師匠がゆっくりと近づいていく。
揺らめく懐中電灯の光が、格子とその隙間とに妖しい縞模様を映し出している。
師匠が窓辺に立って、ゆっくりと息を吐く。
僕も何かに魅入られたように足を運び、師匠の隣に並ぶ。
格子の隙間から風が入り込んできている。その向こうには、暗い空間が広がっている。
暗いけれど、闇ではない。
遠くに黄色く光る街灯がぽつんと立っている。静かな畦道が横に伸びている。
黒々とした山なみがその果てに見える。蛙の鳴き声がかすかに聞こえる。
いったいここはどこなんだ?
応えるものはなにもなく、ただ朧夜の底の光景が僕らの前にあった。
畦道の向こうから、揺れる明かりが近づいて来るのが見える。
わずかに見下ろす。ここは地面よりも少し高い所にあるらしい。
明かりとともに畦道をやって来る人影が見えた。ここからでは遠くて、人形のように小さい。
ああ。近づいてくる。
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