262 師匠18 sage 2008/06/29(日) 13:06:01 ID:2Ox1Ez7r0
553 名前:古い家   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2008/06/29(日) 01:29:36 ID:9x5Yw4U+0
そう思った瞬間、僕は師匠の腕を掴んだ。そして有無を言わさず窓際から引き離す。
「戻りましょう」
そう言って、入って来た部屋の戸に向かう。
胸がドン、ドン、と高鳴っている。
怖い。
怖い。
頭が、それ以外の言葉を紡ぐのを恐れている。
戸惑ったように動きの鈍い師匠から懐中電灯をもぎ取り、板張りの廊下へ先に踏み出す。
早足で狭い廊下を抜け、仰ぐように聳える階段に足をかける。そして降りて来た時
より、もっと高くなったような気がする一段一段を、闇雲に昇っていく。
怖い。
怖い。
壁に突き当たり、左に曲がる。
折り返すとまた階段が上に続いている。どこまでも続いている。
足音が一人分しか聞こえない。
そう思った瞬間、バキィッ、という破壊音が空気を震わせた。
足が止まる。
下からだ。
僕は振り向くと、飛ぶように階段を駆け降りた。下まで着くと、嫌な音のする廊下
を走り抜け、戸が開いたままの部屋に飛び込む。
師匠が金属製の燭台を両手で振り上げ、窓の格子戸に叩きつけている。
木製の格子が1本、2本と砕けて、外に落ちていく。
僕は師匠の名前を叫んで腰のあたりに組み付いた。
その頃の僕にはまだ、けっして越えてはならない境界線というものが確かにあったと思う。

263 師匠19 sage 2008/06/29(日) 13:06:44 ID:2Ox1Ez7r0
555 名前:古い家   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2008/06/29(日) 01:34:17 ID:9x5Yw4U+0
この世のことわりが捻じ曲がり、目に映らなかった世界が剥き出しになる瞬間にさえ、 
自分の戻るべき場所を振り返ってしまう、そんなくだらない人間だった。
燭台を投げ捨て、格子戸の大きく破れた部分に手をかけて外へ身を乗り出そうとする師匠を必死で止める。
羽交い絞めにして、ジタバタともがく身体を窓から引き剥がす。
なにかを喚いているが、聞かない。
その格好のままズルズルと引っ張って、もと来た部屋の戸口に向かう。 
師匠を前に向けて廊下を進み、階段の下まで来ると斜め前方に無理やり押し上げた。
そして師匠のお尻に頭のてっぺんをつけて、グイグイと力任せに押していく。
「……っ! ……っ!」
何かを叫んでいる。
折り返しをいくつか過ぎたあたりでようやく耳に入った。
「わかった。わかったから。危ないから、もう押すな」
それで、少し勢いを落とした。師匠は溜息をつきながら、僕に押されないように早足で進む。 
たった一つの懐中電灯は再び師匠に渡してしまった。
昇っても昇っても階段は先へ続いている。息が荒くなり汗が額から滴り落ちる。 
でも止まれなかった。得体の知れない強迫観念に追い立てられて。
やがて僕の耳は、僕のでも師匠のものでもない別の足音を捉える。酸素が足らなく
なり、前方の視界が暗くなる中で僕はその音が現実なのかどうかを考える。
真上から聞こえてくるような気がした。その足音が降りてきているような。
次の角を曲がった時には、それと出くわしてしまうような……
急に前を行く師匠が立ち止まり、
「目を閉じて息も止めてろ」
と早口に言った。
僕はとっさに反応し、右足だけ次の段に掛けたまま目を閉じて息を止める。

264 師匠コピペ20 sage New! 2008/06/29(日) 13:16:40 ID:BmLMtthY0

556 古い家   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/29(日) 01:39:25 ID:9x5Yw4U+0
苦しい。平常時ならともかく、今は30秒ももちそうにない。 
その苦しさが恐怖心を一瞬忘れさせた時、僕の身体の中を嵐のような声が通り過ぎた。 
たくさんの人間の唸り声のような、呻き声のようなそれは、僕の身体を凍りつかせた後、 
背中から抜けてそのまま階下へと消えていった。
やがてそれは、僕らの足元の遥か下の階を降りていく足音に変わる。 
それは、すれ違うこともできない狭い一本道を、一度も僕の身体に触れないまま通り過ぎて行ったのだった。
「行こう」と言うように服を引っ張られ、目を開ける。
一体なにが通り抜けて違ったんですか?
そんな問い掛けを口にしようとして、僕の目の前にいるそれが、師匠ではないことに気づく。
悲鳴をあげそうになり、口を押さえる。
青白く、冷たい相貌。僕を不安定にさせる氷のような顔。
ああ、これは父だ。僕を怖い場所へ連れて行く父だ。僕の手を掴んで、地面の底へと…… 

「どうした」
いきなり平手が飛んで来た。
頬の痛みに僕は我にかえり、その瞬間に吸い込んだ酸素が脳髄に行き渡る。 
視界の端に視神経の火花がキラキラと散る。
「幻覚でも見たか」
目の前の人間が師匠の姿に戻り、その右手が僕の手の甲を掴んだ。そして僕を引っ張りあげるように、高い階段を昇り始める。
「さっきのは、なんだか、正直、わからん」
師匠のハァハァという息遣いが螺旋状の狭い筒のような空間に響く。 
煤で汚れた手で汗を拭くので、僕らは顔中が黒くなっていることだろう。
降りる時には有限だった折り返しが、今度も有限である保障なんてどこにもない。
けれど、僕は今一人ではない、というその一点だけにしがみついて、ひたすら足を上げ続けた。
足が震え、一歩も歩けなくなりかけた時、懐中電灯の照らす上空にポッカリと四角く開いた空間が出現した。

265 師匠コピペ21 sage New! 2008/06/29(日) 13:17:12 ID:BmLMtthY0




557 古い家   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/29(日) 02:04:21 ID:9x5Yw4U+0
「戻ったぞ」
師匠がその穴から這い出る。僕も続く。
そこは座敷の押し入れで、脇に避けられた木製の蓋も、饐えた畳の匂いも、もと来た時のままだった。 
随分時間が経ったような気がするし、あっという間だったよう
な気もする。ただあれほどおっかなびっくり探索していた古い家の中が、まるで自
分の部屋のように感じられてしまうのは不思議だった。
師匠が「よっ」と力を入れて蓋を動かし、地下への入り口を封印する。 
蓋が閉じきる寸前に、狭くなった空気の通り道を生暖かい風が抜けて嫌な音を立てた。
    うううううう
…………
その呻き声のような音もやがて消えた。
完全に隙間なく蓋を閉めると、空気は漏れないようだ。これでこの家にまつわる噂もなくなるだろうか。
そう思った瞬間、ズズズズン、という地の底から響いてくるような衝撃が周囲の闇を振るわせた。崩落を示す振動。
地下の階段からだ。それはすぐに直感した。
そして、もう地面の奥底のあの部屋にはたどり着けなくなったことも。
土埃のような匂いが蓋から染み出してくる。
師匠は「あ~あ」と言って、鼻を鳴らした。そして息を整える暇もなく、「出よう。嫌な感じだ」という言葉に、僕は従う。
走らない程度に急いで、入る時に僕が壊した裏の戸口から外に出た。 
裏庭を抜け、雑草を掻き分けて土塀の朽ちた木戸を潜る。そのあいだ、僕ら以外のなんの気配も感じなかった。
「お風呂に入りたい」
師匠がそう言いながら家に背を向け、遠くの黄色い街灯を目印に畦道の方へ進む。
僕は立ち止まり、その家の「醤」と書かれた正面の構えを眺める。


266 師匠コピペ22 sage New! 2008/06/29(日) 13:17:36 ID:BmLMtthY0


558 古い家 ラスト   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/29(日) 02:06:43 ID:9x5Yw4U+0
その僕の様子に気づいて師匠が振り返り、懐中電灯を二階に向けた。
二階の窓の格子戸は最初に見た時のまま整然と並んでいる。
「調べてみたいなんて言うなよ」
師匠の声が冷たく響く。
「あの葡萄は酸っぱい、だ」
師匠は踵を返して歩き出す。置いていかれまいと、追いかける。
蛙の鳴き声を聞きながら、僕は落ち込んでいた。
あの、地下室の窓辺で取り乱していたのは僕だった。
喚いて、羽交い絞めを振りほ
どこうとしていた師匠ではなく。それは僕にも師匠にも良く分かっている。
また失望させてしまったし、それを面と向かって責められないことも逆に辛かった。
けれどあの時、師匠を止めていなかったとしたら、僕にはその後の世界を想像できないのだ。
「すみません」
と言って、僕は頭を垂れた。