図書館からの帰り道、私はクレープを買い食いしながら商店街の路地に佇んでいた。
夕焼けがレンガの舗装道を染めて、様々なかたちの影を映し出してる。道行く人の横顔はどこか落ち着かないように見える。みんな心の奥深い場所で、説明しがたい不安感を抱いているようだった。
そう思った私の目の前を女の子たちの笑い声が通り過ぎる。
息を吐いて、最後の一口を齧る。どの人の表情も、私の心の投影なのかも知れない。ロールシャハテストだ。笑い顔以外に、すれ違うの人の気持ちを理解できる機会なんてまずないんだから。
結局あの図書館の本の落下の原因はわからないままだった。こんなことが、昨日の水曜日から今日にかけて、街の至る所で起きているらしい。
私は起こっていることより、この一連の出来事の向かう先のことが気に懸かっていた。いったいどういうカタルシスを迎えるのか。そう考えながら目を閉じると、何かをせずにはいられない気持ちになるのだった。
『エキドナを探せ』
その言葉に、糸口を見出せそうな気がする。さっきからそのことばかり考えている。
クレープの包みをクズ籠に放る。
私にこのヒントを投げ掛けた間崎京子は、街中で起こっている怪異を怪物に例えた。そしてその怪物たちを生み落とすのは蝮の女エキドナだ。これがいったい何の隠喩なのか定かではない。
定かではないが、私はこう考えている。
少なくとも間崎京子は、一見バラバラに発生しているように見える怪奇現象が単一の根っこを持っていると思っている。
それも、ナントカ現象だとかナントカ効果だとかといった包括的ななにかではなく、信じがたいことにそれはたった一つの"人格"と言えるような存在に収束されているような気がするのだ。
ハ。
こんなこと、誰かに話せるようなものではない。

つくづく一人が好きだな。
暗鬱な気持ちが、帰り道をやけに遠くさせた。
家に帰り着き、玄関の前に立った時から気づいていたが、やはりその夜の晩御飯はカレーだった。
「そんなに水ばかり飲んでると消化が悪くなるわよ」
という母親の小言を聞きながらカレーをスプーンでかき込み、水で流し込む。
「今朝どっかで工事してた?」
さりげなく聞いてみたが、「そういえば、どこでやってのかしらね」と母親が首を
傾げる。
父親は「知らん」と言いながら夕刊を読んでいる。妹は身体を反転させて皿を持ったまま居間のテレビを見ている。
父親が読み終わるのを待ってから夕刊に目を通したが、特に変わった記事はなかった。
それから自分の部屋に引きあげる。
明かりとラジオをつけて、部屋の真ん中。隅に転がっていたクッションを引き寄せる。
なにをすればいいのか正直分からない。
とりあえず昨日ファフロツキーズの項だけ読んで投げていた『世界の怪奇現象ファイル』を通して読んでみることにした。
ラジオがくだらない話題でけたたましい笑い声を出し始めたのでスイッチを消し、適当なCDをかける。
そして黙々と頁をめくる。
どこかで聞いたことがあるような怪奇現象ばかりが列挙されているが、情報の量と質にはかなり偏りがあり、ファフロツキーズの項のような詳細な解説はあまりなかった。
そんな中、CDの7曲目が過ぎたあたりだっただろうか。私は半分読み飛ばしかかっていた文の中になにか引っかかるものを感じ、思わず姿勢を正す。
それは『ポルターガイスト現象』の項だった。

「……ポルターガイスト現象の例としては、室内にバシッという正体不明の音が響く、手も触れていないのに家具が動く、皿が宙に舞う、スイッチを入れていない家電製品が作動するといった目に見えない力が働いているかのようなものから、何もない空間から石や水が降ってきたり、火の気のない場所で物が発火したりといった怪現象などが挙げられる……」
私は緊張した。
石降り現象!
そういえば、ポルターガイスト現象を題材にしたドラマだか映画だかで、室内に石が降って来るという場面を見たことがあった。
完全に失念していた。
間崎京子はこれを言っていたのだ。
『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるなと。
自分の間抜けさに腹が立つ。
石の雨が降るという現象には、別のアプローチの方法があったのだ。
「クソッ」
本を投げて立ち上がる。
ポルターガイスト現象の項はあきらかにやっつけ仕事で、情報量としては私でもおぼろげに知っていた程度のことしか載っていなかった。
鞄からアドレス帳を引っ張り出して、目当ての番号を探す。
中学時代の先輩だ。部活が同じだった。
彼女は子どものころに身の回りでポルターガイスト現象としか思えないような不可解な出来事が続いたらしく、やがてそれが収まった後もなにかと話のタネにしていた。散々同じ話を聞かされたので内心ウンザリしていたものだが、2年ほど経った今では案外忘れてしまっている。
「晩に済みません。しかもいきなりで。ちょっと教えてもらいたいことがあるんですが」

突然の電話にも関わらず彼女は私を懐かしがって、「電話より、今からウチ来る?」と言ってくれた。
「すぐ行きます」と言って電話を切り、廊下から居間の方に向かって「ちょっと出てくる」と大きな声で告げてから家を飛び出した。
生ぬるい空気が夜のしじまを埋めている。一日、熱エネルギーを吸収したアスファルトがまだ冷めないのだ。
自転車に乗って、住宅街の路地を急ぐ。
街灯がぽつんとある暗い一角に差し掛かった時、コンクリート塀の傍らに設置されている公衆電話が目に入った。
何故か昔から苦手なのだ。
小さいころに「お化けの電話」という怪談が流行ったことがあり、ある9桁の番号に公衆電話から掛けるとお化けの声が受話器から聞こえてくるという、他愛もない噂だったのだが、私は近所の男の子と一緒にこの公衆電話で試したことがあった。
記憶が少し曖昧なのだが、たしかその時はその男の子が「聞こえる」と言って泣き出し、受話器をぶんどった私が耳をつけるとツーツーという音だけしか聞こえなかったにもかかわらず、その子が「だんだん大きくなってきてる」と喚いて電話ボックスから飛び出してしまい、取り残された私も怖くなってきて逃げ出してしまった。
それ以来、この道を通る時には無意識にその電話ボックスから目を逸らしてしまうのだ。
気味は悪かったが、今は何ごともなく通り過ぎて先を急ぐ。
先輩の家には15分ほどで着いた。
玄関先で待っていてくれたので、チャイムを鳴らすこともなく家に上げてもらう。

時計を見ると夜の9時を回っていたので「遅くに済みません」と恐縮すると、母親が現在別居中で、父親は仕事でいつも遅くなるから全然ヘイキ、と笑って話すのだった。
兄弟姉妹もいないのでいつもこの時間は家に一人だという。
先輩の部屋に通されて、クッションをお尻に敷いてからどう話を切り出そうかと思案していると、彼女は苦笑しながら私を非難した。
「同じ学校に入って来たのに、挨拶にも来ないんだから」
ちょっと驚いた。
中学時代の2コ上の先輩だったが、そういえば高校はどこに進学したのか知らなかった。まさか同じ学校の3年生だったとは。
向こうは何度か学内で私らしき生徒を見かけたらしく、新入生だと知っていたようだった。
しばらく学校についての取りとめもない話をする。
正直、早く本題に入りたかったのだが先輩の話は脱線を繰り返している。ただひとつ、「校内に一ヶ所だけ狭い範囲に雨が降る場所がある」という奇妙な噂話だけはやけに気になったので、今度確かめてみようと密かに心に決める。
「で、聞きたいことってなに?」
先輩が麦茶を台所から持ってきて、それぞれのコップに注ぐ。
ポルターガイスト現象のことだとストレートに告げた。
先輩は目を丸くして、「ピュウ」と口笛を吹く。
「あれ? あなたにはあんまり話してなかったっけ?」
いや、聞きました。耳にタコができるくらい聞かされました。