案の定、ケンカになった。毎週金曜日に会う約束をしていたのに、これで2週連続私からドタキャンしてしまった。だからと言って別に浮気をしているワケではない。
止むに止まれぬ事情があるのだから。逆に私へのあてつけのように、今夜は女を買うなどと口にしたことの方がよほど許せない。
「死ね」と言って電話を切った。
電話ボックスを出たときは頭に血が上り冷静さを欠いていたが、しばらく自転車を漕いでいると次第に我に返ってくる。
いけない。方向が違う。
自転車のカゴから地図を取り出して確認する。この辺りはまだ青のエリアだ。ハンドルを切って方向を修正した。
立ち漕ぎで先を急ぐ。
景色がヒュンヒュンと過ぎ去っていく。
その中へ溶けていくように、涙がひと筋だけ流れて消えていった。
ホントに、私はなにをやっているのだろう。
駄目だ。このところ、心と身体のバランスを崩している。ちょっとしたことで落ち込んだり、悩んだり。今もこんな訳の分からないことでいつの間にか必死になっている。いったい私はどうしてしまったのか。
『あなた、ちょっと変わったね』と昨日の夜先輩は言った。高校に入ってから私は変わり始めてしまったらしい。何故なのだろう。
剣道部を続けていた方が良かったかも知れない。
そう思いながら自転車を漕ぎ続ける。
気がつくと私は赤のエリアに入っていた。そしてその最深部までは目と鼻の先だった。
ただのありふれた住宅街だ。今はなんの不吉な印象も受けない。なのに緊張してしまうのは頭で考えてしまうからなのだろう。
三差路の角を曲がったとき、私は心臓が止まるほど驚いた。
コンクリート塀に電信柱が無造作に立てかけられている。元あったと思しき場所には穴が開いていて、そこからまるで力任せに引き抜かれたかのような痕跡が地面のひび割れとなって現れていた。電線の角度が変わって片方はピンと張り、もう片方はたわんでブラブラと揺れている。

まるで子どもがおもちゃの箱庭で遊んでいるような現実離れした光景だった。
目に見えない巨大な手が空から降ってくるような錯覚を覚えて私は思わず身体を仰け反らせる。
聞き集めた怪現象の中にこんなものがあったはずだ。でもこれは多分別件だろう。
全く誰もこの異変に気づいた様子はない。誰かにここでこうしているのを見られたらと思うと煩わしくなり、すぐに自転車を発進させた。
高野志穂の家はそこから5分と掛からなかった。
わりと新しい住宅が並んでいる一角の、青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。
家の前に自転車をとめて私は腕時計を見る。
彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、まだ部活から帰っていない時間のはずだ。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
インターフォンから「はあい」という声がして、暫し待つと玄関のドアが開いた。
高野志穂に良く似た小柄な女性が顔を覗かせる。母親らしい。
「あら。どなた」
そう言いながらドアを開け放ち、こちらに歩み寄ってくる。
内側にチェーンは…………ない。
目線の動きを悟られないように素早く確認した後、私は出来る限りのよそいきの声を出した。
「志穂さんはいらっしゃいますか」
「あら、お友だち? 珍しいわねぇ。でもゴメンなさい。まだ帰ってないのよ。
 ……どうしましょう。ウチに上がって待ってくださる? 散らかってるけど」
「いえ、いいんです。ちょっと近く来たので寄っただけですから。また来ます」
そう言って私は頭を下げ、申し訳なさそうな母親にヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。
「さようなら」
家を辞する挨拶として、適当だったのか分からない。ああいうときはなんと言うのだろう。お休みなさい、かな。でも少し時間帯が早いか。

そんなことを考えながら角を曲がるまで背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。
あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。根拠のない自信だが、エキドナの母親であればたぶん一度顔を見れば分かるはずだ。
さあこれからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。
住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。
やむを得ず、カンでぶつかってみることにした。
それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴を鳴らして回った。
表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこしくなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。
するとたいていの家では母親が出て来て「志穂さんって、ひょっとして高野さんの所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じなかった。応対してくれる主婦もごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭内で子どもとなにか問題が起きていないかなどと聞いた方が良いのだろうか、と考えたがどうしてもそれは出来そうになかった。クラスメートならともかく、初対面の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの図太い神経を私は持ち合わせていないのだった。
日が暮れたころ、私は疲れ果ててコンクリート塀に背中をもたれさせていた。

駄目だ。なんの手掛かりも得られなかった。範囲が広すぎてどこまで回っていいのかも分からない。慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気もする。
「もう帰ろ」
そう呟いてヨロヨロと立ち上がる。
自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思う。どんな方法があるのか全く名案が浮かばないままで疲れた足を叱咤しながらペダルを漕ぐ。
帰り道、日の落ちた住宅街にパトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のある辺りだ。
ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうかと考えた。
電信柱や並木が引き抜かれた事件は明らかに器物損壊だろう。当然犯人を捜しているはずだ。
もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。聞き込みのプロである彼らが人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。母親に殺意を抱く少女を。
でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと分かる。
私だって信じられないのだから。
街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。
パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に私はその道を避けて少し遠回りしながら帰路に着いた。