家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。
心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事をする。
なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。

些細な口喧嘩でもそれがエスカレートすることを恐れていたのかも知れない。
自分の部屋を見回しながらクッションに腰を下ろし溜息をつく。
小さなテーブルの上には水曜日に買った『世界の怪奇現象ファイル』が伏せられている。その周囲には昨日先輩に借りたポルターガイスト現象に関連するオカルト雑誌の類が乱雑に転がっている。そしてその横の本棚には中学時代に買い集めた占いに関する本が所狭しと並んでいた。勉強している形跡のない勉強机の上には怪しげな石ころ……
なんて部屋だ。
我ながら顔を手で覆いたくなる。
今時の女子高生の部屋としては「惨状」とも言うべき有様を複雑な気持ちで眺めていると、ふいにテーブルの下に落ちている物に気がついた。
紙袋だ。デパートの包装がしてある。
なんだっけ、と思いながらなんの気なしにそれを手に取り、封をしているシールを剥がす。
中からは鋏が出て来た。
緑色の、ありふれた鋏。
私はそれを見た瞬間、氷で身体を締め付けられるようなジワジワとした不安感に襲われた。
なんだこれは?
鋏だ。ただの鋏。いつ買った? そう、あれは石の雨が降った水曜日。デパートで『世界の怪奇現象ファイル』を手に入れたときに一緒に買った物だ。
待て、おかしいぞ。思い出せ。そもそも私はデパートにその本を買いに行ったのではない。鋏を買いに行ったのだ。石の雨の現場を見た後、その近くの商店街の雑貨店で売り切れていたので、わざわざ足を伸ばして……
ドキンドキンと心臓が脈打つ。
"鋏を買わないといけない気がしていた"
そのときは。確かに。
何故?
思い出せない。
その鋏を買って帰った日、私はそんな物を買ったことも忘れてこうして放り出している。

要らない物をどうして買ったんだろう?
急に頭の中に夢の記憶がフラッシュバックし始めた。
  
 夢の中で私は足音を聞く。そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる……

吐き気がして、口元を押さえる。
刃物だ。あの夢の中で自分が持っている刃物はなんだ?
もやもやして、握っている感覚が思い出せない。ただキラリと輝いた瞬間だけが脳裏に焼きついている。
あれが、鋏だったんじゃないのか。
最悪の想像が頭の中を駆け巡る。
夢の中で少女になった私は鋏で母親に切りつけた。その"思い出せなかった"記憶が潜在意識の奥底で私の行動を縛り付け、半ば無意識のうちに新しい鋏を購入させたのだろうか。
だとしたら……
私は立ち上がり、鋏を手に部屋を飛び出して「ちょっと外、行く」と居間の方に一声叫んでから玄関を出た。
自転車に乗って駆け出す。
途中通り過ぎたゴミ捨て場に鋏を投げ捨てる。
「ちくしょう」
自分のバカさ加減に心底腹を立てていた。
外は暗い。何時だ? まだ店は開いている時間か? 気が逸ってペダルを踏み外しそうになる。
人気の少ない近くの商店街にはまだポツリポツリと明かりが灯っていた。
自転車をとめ、子どものころからよく来ていた雑貨屋に飛び込む。

息を切らしてやって来た私に驚いた顔で、店のおばちゃんが近寄って来る。
「なにが要るの?」
その言葉に、息を整えながらようやく私は「はさみ」と言う。
するとおばちゃんは申し訳なさそうな顔になって、「ごめんねぇ。ちょうど売り切れてるのよ」と言った。
想像していたこととは言え、ゾクリと鳥肌が立つ感覚に襲われる。
「誰か、大口で買ってったの?」
「ううん。今週はぽつぽつ売れてて昨日在庫がなくなっちゃったから、注文したとこ。明日には入ると思うけど……」
どんな人が買っていったのかと聞いてみたが、若者もいれば年配の人もいたそうだ。
「どうする? 明日来るなら取っとくけど」と聞くおばちゃんに、「いい。急ぎだから他を探してみる」と言って店を出る。
少し足を伸ばし、私は鋏を置いてそうな店を片っ端から見て回った。店仕舞いをした後の店もあったが、閉じかけたシャッターから強引に潜り込み、「鋏を探してるんですが」と言った。
そのすべての店で同じ答えが返って来た。
『売れ切れ』と。
最後に私は一昨日の水曜日に鋏と本を買ったデパートに向かった。
閉店時間まぎわでまばらになった客の中を走り、まだ開いている雑貨コーナーに飛び込む。
中ほどにあった日用品の棚には異様な光景が広がっていた。
ありとあらゆる日用雑貨が立ち並ぶなか、格子状のラックの一部だけがすっぽりと抜け落ちている。
カッターも、鉛筆も、定規も、消しゴムも、修正液も、ステープルも、コンパスでさえ複数品目が取り揃えられているのに。
鋏だけがなかった。ただのひとつも。
私はその棚の前に立ち尽し、生唾を飲み込んでいた。
鋏が街から消えている!
いや、消えているのではない。その懐の奥深くに隠されて、使われるときをじっと待っているのだ。