嘘だ!
これは嘘だ。
間崎京子は、そんな夢を見ていないと言ったはずだ。それとも今朝私にそう言ってから、この夜までの間に彼女は眠り、エキドナが見る夢とシンクロして母親殺しを追体験したというのか。
クス、クス、クス……
コン、コン、コン……
忍び笑いと、咳の音が交互に聞こえる。
「わたしは、嘘なんてついてないわ。ただあなたが『母親を殺す夢を見たか』と聞くから『見てない』と言っただけよ」
「それのどこが嘘じゃないって言うんだ。おまえも刃物で切りつける夢を見ているじゃないか」
声を荒げかける私に、淡々とした声が諌めるように降って来る。
「わたしが見ていた夢は、『知らない女を殺す夢』よ」
なに?
予想外の答えに私は一瞬思考停止状態に陥る。
「月曜日だったかしら、それとも火曜日だったかな? チェーンを外して、ドアから首を出す見覚えのない女の首筋に刃物で切りつける夢を見たのよ。一度見てからは毎日。他のみんなはそれが母親の顔だと思っているみたいね」
どういうことだ? 間崎京子だけは、夢の中で殺した相手が母親ではないと言うのか? 何故だ。
「おかしいと思わない? 夢に出てくるチェーンのついたドアだとか、それに手を伸ばして背伸びをする感覚は、みんな実際の自分のものではない、言うならば個を超越した共通言語として出て来るのに、殺した相手の顔だけは現実の自分の母親の顔だなんて」
待て。それについては考えたことがある。私はこう思ったのだ。

『……それは"母親"というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない』と。
「チェーンのついたドア」や「届かない手」という記号が、そのままの姿でもその本質を見失われないのに対し、「母親」という記号が、もし仮に別の知らない女の顔で現れたとしたならば、それは本質を喪失し私たちにその意味を理解させることさえ出来ないに違いない。
「母親」であるために、母親の仮面を被っていのだ。
では、間崎京子の見た「知らない女」とは……
「わたしに、母親を殺す夢なんて見られるわけがないわ。だって、わたしはママの顔、知らないんですもの」
静かに、彼女はそう言った。
「ママはわたしが生まれる時に死んだわ。家には写真も残っていない」
受話器から淡々と陶器が鳴るような声が聞こえて来る。
「見たことはなくても、あんな醜い顔の女が、わたしのママではないことくらい分かるわ」
自分の美貌のことを暗に言いながら、それを鼻にかけるような嫌味さを全く感じさせない自然な口調だった。
間崎京子のケースは、母親と別居しているというポルターガイスト現象の経験者でもあった先輩とは、明らかにその背景が異なっている。
先輩は家にいないはずの母親を殺す夢を、『ありえない夢』と称したけれど、殺す相手の顔は「母親」の顔として認識している。
今現実に母親がいなくとも、その顔を知ってさえいれば良いのだ。
間崎京子はその顔すら知らず、「知らない女」が「母親」という意味を持つための仮面を被せることが出来なかったのだ。
ならば、間崎京子の夢に現れた女こそ、エキドナに殺意を抱かせた母親そのものなのではないのか。「母親」という仮面の下の、素顔だ。
「そう。その女が、怪物たちの母親の母親。罪深いガイアね」

捕まえた。
ついに捕まえた。間崎京子にさえ協力してもらえれば、エキドナは見つけられる。
あるいは、今日訪ねて回った家々の主婦たちの中の誰かがその母親だったのかも知れない。
「その女の顔は、まだはっきり覚えているか」
拝むような私の問い掛けに、彼女は優しい口調で答えた。
「覚えているわ。似顔絵を描きましょうか。わたし、絵は得意なのよ」
良し。良し!
私は思わず受話器にキスしそうになる。案外いいヤツじゃないか。間崎京子は。
そんなことを頭の中で叫んでいた。後にして思うと、我ながら単純だったと思う。
「どっちにしても明日ね。こんな夜には探せないわ。明日、絵を描いていくから」
またコン、コン、という咳が漏れる。
「ああ、ありがとう。無理しなくてもいから。身体に気をつけて」
じゃあ、明日学校で。
そう言って私は受話器を置いた。
明日だ。
明日には見つけられる。目を閉じて、それをイメージする。
「ムリしなくてもいいから。カラダに気をつけてぇ」
声に振り向くと、妹が廊下でくねくねと身体を揺らしながら私の物真似をしていた。
オトコとの電話だと邪推しているようだ。エキドナだとか母親殺しだとかの怪しげな部分は聞かれていないらしい。
「もう寝ろ、ガキ」
「自分だってまだ子どもじゃん」
「キャミソール返せ」
「あ、やだ、もうちょい貸して」
そんなくだらないやりとりをしたあと、私は部屋に戻った。
疲れた。
ばたりとベッドに倒れ込む。

転がって仰向けに姿勢を変えてから、今日あったことを順番に思い出してみる。
2度目の『母親を殺す夢』。学校での情報収集。円形の地図の完成。先輩を怒らせたこと。中心地の聞き込み。無駄足。買ったままの鋏。鋏の消えた街。間崎京子との電話……
(そういえば、先輩の部屋にも鋏があったな)
先輩がサイ・ババの真似をしていたときに手に持っていた鋏。テーブルの上に無造作に置かれていたものだったけれど、手のひらから(私には服の裾からにしか見えなかったが)宝石や灰を出してみせるという奇蹟の再現をするのに、隠しにくい鋏は適切な物だっただろうか。消しゴムやなんかの方が、よほど上手く出来るだろう。
(新品に見えたけど、あの鋏もなんとなく買ったのかな)
何故それが要るのか、深く考えもしないで……
ふと、電話で注意した方がいいだろうか、と思った。
いや、駄目だな。夕方に怒らせたばかりだし、こんなに遅い時間に電話してまた変な話をしたのでは、きっとまともに聞いてくれないだろう。
あれ? そう言えば、私もまだ持ってたな、鋏。
机の引き出しのどこかに、昔から使ってるやつがあるはずだ。
あれも捨てて来た方が良かったかも。
あ……でも眠いや……
明日にしよう……
明日に……

眠りに落ちた。

暗い。暗い気分。泥の底に沈んでいく感じ。
 私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
 散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
 やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
 暗い気持ち。殺したい気持ち。
 足音が下から登ってくる。
 私はその足音が、母親のだと知っている。
 やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
 背伸びをして、チェーンを外す。
 そしてロックをカチリと捻る。
 手には硬い物。私の手に合う、小さな刃物。
 ドアが開けられ、ぬうっと、青白い顔が覗く。
 母親の顔。見たことのない表情。見たくない表情。
 ドアの向こう、母親の背中越しに月。真っ黒いビルのシルエットに半分隠れている。
 どこかから空気が漏れているような音がする。それは私の息なのだろうか。
 いや、私の身体にはきっとどこかに知らない穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているんだろう。
 私は入り込んでくる顔に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
 ただ手の中にある硬い物を握り締め、暗い気持ちをもっと暗くして。