「……行ってはいけない」
この声は。
そう思った瞬間、脳の機能が再起動を始める。
間崎京子だ。この向こうにいるのは。
「鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩いたものが、ヒトの中でなにをしたか、わかって?」
冷え冷えとした声が、ノイズとともに響いてくる。
「何故だ。どうやってここに掛けた」
沈黙。
「お前も見たのか。あの夢を。行くなとはどういうことだ」
コン、コン、コン、とせせら笑うような咳が聞こえる。
「……その電話機の左下を見て」
言われた通り視線を落とす。そこには銀色のシールが張ってあり、電話番号が記されている。この電話機の番号だろうか。
「みんな案外知らないのね。公衆電話にだって、外から掛けられるわ」
その言葉を聞きながら、私は頭がクラクラし始めた。思考のバランスが崩れるような感覚。この電話の向こうにいるのは、生身の人間なのか? それとも、人の世界には属さないなにかなのか。
「夢を見て、あなたがそこへ向かうことはすぐに分かったのよ。そしたら、その電話ボックスの前を通るでしょう。一言だけ、注意したくて、掛けたの」
「どうして番号を知っていた」
「あなたのことなら、なんでも知ってるわ」
あらかじめ調べておいたということか。いつ役に立つとも知れないこんな公衆電話の番号まで。
「行ってはいけない。わたしも、少し甘く見ていた」
「なにをだ」
再び沈黙。微かな呼吸音。
「でもだめね。あなたは行く。だから、わたしは祈っているわ。無事でありますようにと」
通話が切れた。

ツー、ツー、という音が右耳にリフレインする。
私は最後に、言おうとしていた。電話を切られる前に、急いで言おうとしていた。
そのことに愕然とする。
いっしょにきて。
そう言おうとしていたのだ。
頼るもののないこの夜の闇の中を、共に歩く誰かの肩が、欲しかった。
受話器をフックに戻し、電話ボックスを出る。
少し離れた所にある街灯が、瞬きをし始める。消えかけているのか。私は自転車のハンドルを握る。
行こう。一人でも、夢の続きを知るために。
自転車は加速する。耳の形に沿って風がくるくると回り、複雑な音の中に私を閉じ込める。
振り向いても電話ボックスはもう見えなくなった。離れて行くに従って、さっきの電話が本当にあった出来事なのか分からなくなる。
何度目かの角を曲がり、しばらく進むと道路の真ん中になにかが置かれていることに気がついた。
速度を緩めて目を凝らすと、それはコーンだった。工事現場によくある、あの円錐形をしたもの。パイロン、というのだったか。
道路の両側には民家のコンクリート塀が並んでいる。ずっと遠くまで。アスファルトの上に、ただ場違いに派手な黄色と黒のコーンがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。当然、向こうには工事の痕跡すらない。誰かのイタズラだろうか。
その横をすり抜けて、さらに進む。
500メートルほど行くとまた道路の真ん中に三角のシルエットが現れた。またコーンだ。
避けて突っ切ると、今度は10秒ほどで次のコーンが出現する。通り過ぎると、またすぐに次のコーンが……
それは奇妙な光景だった。

人影もなく、誰も通らない深夜の住宅街に、何らかの危険があることを示す物が整然と並んでいるのだ。だが行けども行けどもなにもない。ただコーンだけが道に無造作に置かれている。
段々と薄気味悪くなって来た。あまり考えないようにして、ホイールの回転だけに意識を集中しようとする。
だが、その背の高いシルエットを見たときには心構えがなかった分、全身に衝撃が走った。
今度はコーンではない。細くて長く、頭の部分が丸い。道でよく見るものだが、それが真夜中の道路の真ん中にある光景は、まるでこの世のものではないような違和感があった。
『進入禁止』を表す道路標識が、そのコンクリートの土台ごと引っこ抜かれて道路の上に置かれているのだ。
周囲を見回しても元あったと思しき穴は見つからない。いったい誰が、そしてどこから運んで来たというのか。
ゾクゾクする肩を押さえながら、『進入禁止』されているその向こう側へ通り抜ける。
これもポルターガイスト現象なのか?
しかしこれまでに起きた怪現象たちとは、明らかにその性質が異なっている気がする。石の雨や、電信柱や並木が引き抜かれた事件、中身をぶちまけられる本棚やビルの奇妙な停電などは、"意図"のようなものを感じさせない、ある意味純粋なイタズラのような印象を受けたが、この道に置かれたコーンや道路標識は、その統一された意味といい、執拗さといい、何者かの"意図"がほの見えるのである。
く・る・な。
その3音を、私は頭の中で再生する。
ポルターガイスト現象の現れ方が変わった。それが何故なのか分からない。現れ方が変わったと言うよりも、「ステージが上った」と言うべきなのか。これでは、RSPK、反復性偶発性念力などという代物ではない。もっと恐ろしいなにか……
私は吐く息に力を込める。目は前方を強く見据える。怖気づいてはいけない。
ビュンビュンと景色は過ぎ去り、放課後に訪れたオレンジの円の中心地である住宅街へ到着する。結局、道路標識はあれ以降出現しなかった。言わば最後の警告だった訳か。

私は夜空を仰ぎ、月の光に照らされたビルの影を探す。
この街で一番高い影だ。
そして月がそのビルに半分隠れるような視点を求めて、息を殺しながら自転車をゆっくりと進める。
動くものは誰もいない。ほとんどの家が寝静まって明かりも漏れていない。様々な形の屋根が、黒々とした威容を四方に広げている。
やがて私は背の低い垣根の前に行き着いた。街にぽっかりと開いた穴のような空間。
向こうには銀色の街灯が見える。遮蔽物のない場所を選んで通るのか、風が強くなった気がする。
公園だ。
私は胸の中に渦巻き始めた言いようのない予感とともに、自転車を入り口にとめ、スタンドを下ろしてから公園の中に足を踏み入れた。
靴を柔らかく押し返す土の感触。銀色の光に暗く浮かび上がる遊具たち。見上げても月はビルに隠れていない。ここではない。けれど今、私の視線の先には、街灯の下に立つ二つの人影があるのだ。
ごくり、と口の中のわずかな水分を飲み込む。
人影たちも近づいて行く私に明らかに気づいていた。こちらを見つめている複数の視線を確かに感じる。
風が耳元に唸りを上げて通り過ぎた。
「また来たよ」影の一つが口を開いた。「どうなってるんだ」
ようやくその姿形が見えて来た。眼鏡を掛けた男だ。白いシャツにスラックス。ネクタイこそしていないが、サラリーマンのような風貌だった。神経質そうなその顔は、30歳くらいだろうか。
「こんな時間に、こんな場所に来るんだから、私たちと同じなんでしょうね」
声は若いが、外見は50過ぎのおばさんだった。地味なカーキ色の上着に、スカート。小太りの体型は、不思議と私の心を和ませた。
「あの、あなたたちは、なにを……」
そこまで言って、言葉に詰まる。