「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、そんな選択をした。わたしたちが、この街の人たちが、こうして静かな夜の中にいられるのもそのおかげだ」
目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。
「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すら、あの子はしていたような気がする。もう終わったことだ。招かれざる侵入者は。目を閉じて去るべきだ」
キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。
警告。そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
ではあの、カラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない奇妙なものたちが蠢いていることを認めざるを得ないのだろうか。
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかではこんなもの当たるわけないと思っていた。それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、私たちの世界のあり方は反転する。そんな期待を持っていたのかも知れない。
『変わってる途中、みたいな』
そうだ。私は変わりつつある。何故だか、身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るようにその右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、そしてすぐに消え去る。

キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。
「逃がした」
起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。
「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」
誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。
「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。心当たり、あるか」
名指しされて私は混乱する。誰かに見られているような感覚は確かにあった。先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。いや、その感覚はその前から知っている。なんだ? 視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、微笑が嘲笑に変わって行くような……
私の中にある女の顔が浮かぶ。その女は、私のことはなんでも知っていると言った。
そして私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするようにすべて知っていた。はっきりとは言わないが、間違いなく。
「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」
キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。
「迷惑なやつなら、シメてやろうか」
強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。私はそれにひとときの間、見とれてしまった。
「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも――」
夜をうろついているから。
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、私たちに背を向けて歩き始めた。
「そういやさ」
思いついたように急に立ち止まって振り向く。
「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」
私たちのようにこの住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
全員が首を横に振る。

「あの、ボケェ」キャップ女はそう吐き捨てる。「じゃあこ~んな眉毛の、ゴツイ奴は?」
またみんなの首だけが左右に振られる。
「アンニャロー」
そう言っておかしげに笑い、「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。
「あ、そうそう。ケーサツ、電話しとくから。逃げといた方がいいよ。わたしたちみたいな連中はこんなことに関わると、めんどくさいだろ。いろいろと」
前を向いたまま、高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ消えて行くのを見届けたあとで、残された私たちは顔を見合わせた。
「ぼ、僕も帰る。明日は朝から会議なんだ。じゃ、じゃあね」
眼鏡の男が踵を返そうとする。その回転がピタリと止まって、もう一度その顔がこちらに向いた。
「僕は、変なものを、よく見るんだけど、お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、なんていうかな。その、もう一人のキミが、いるよね」
ドキッとした。秘密を覗かれた気がして。
「それ、きっと悪いものじゃないから。気にしないでいいと思うよ」
じゃあ、と言って彼は去って行った。
「あら、そう言えばあの外人さんの子どもは?」おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。次の瞬間、太い幹の裏側にスッと隠れる。
「ちょっと。おうちまで送ってあげるから、わたしと一緒に帰りましょう」
おばさんが木の幹に沿って、裏側に回り込む。まるで眼鏡の男が始めにしたような光景だ。
しかし見つめる私の目の前で、おばさんだけが反対側から出て来る。
女の子の姿はない。
「あら? いない」
狐につままれたような顔で木の裏側を見ようとおばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。私の目にもおばさんだけがグルグルと木の周りを回っているようにしか見えない。

女の子は忽然と消えていた。
「なんだったのかしら」おばさんは立ち止まり首を捻っていたが、気を取り直したように私の方を見た。
「わたし、市内で占い師をしてるから、今度会ったららタダで占ってあげるわよ」
そう言ってウインクをしたあと、痛そうに腰をさすりながら公園の出口へ歩いて行った。
一人残された私は、今までにあった様々な出来事が頭の中に渦を巻いて、軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が、街灯にぶつかって嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、目が回りそうだ。その中でも、ある言葉が重いコントラストで視界に覆い被さってくる。
「救えなかった」
それを口にしてみると、ゴミ袋から覗く土気色の顔がフラッシュバックする。そして暗い気持ちが、段々と心の奥底に浸透し始める。ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、死体を隠そうという意思が感じられない。まるで本当のゴミを捨てるようなあっけなさだ。どんな家庭で、どんな母親だったのか知らないけれど、精神鑑定とやらでひょっとすると罪に問われなくなるのかも知れない。子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのかどうかは分からない。だけど彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が胸の内に湧き始める。
いけない。
顔を上げて、深呼吸をする。呼吸の数だけ、視界がクリアになっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、公園の出口に向かう。そして車止めのそばにとめてあった自転車に跨る。
終わったんだ。全部。
そう呟いて、夜の道を、帰るべき家に向かってハンドルを切った。
雲に隠れたのか、月はもう見えなかった。